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近代科学を切開する

   

自然観と科学の役割

吉国さん、数学の前にもう少し、自然観について。

ギリシャにおいては、貴族・平民・奴隷という身分制度が確立している。制覇力は武力であるが、武力権力の共認とともに、その権力を正当化するための無数の表層観念とその共認によって社会は統合されている。

古代のギリシャ哲学の自然観は、コスモスに意味されるように、人間をその中に含む秩序を持った全体としている。規則性を欠くカオス的な変化も、永遠に変化しない秩序の中にとどまる。そして、この世界の永遠の秩序こそ、神によってもたらされたものである。

例えば、神話が心の充足をもたらす幻想観念であるとしても、統合上はそれだけでは不十分である。現実の世界に対する正当性の理屈が必要である。自然哲学とはそのような、統合上の理由から発生しているのではなかろうか。その担い手が、勝者階級(特権階級)であるのはその意味で当然である。

現実世界を制覇する権力共認(と本源共認との違和感)と宗教的態度(幻想観念充足)のズレを取り繕うための自然観ともいえるのではなかろうか。だから、認識の仕方としての感性的なものと理性的な認識とのちがいという、二元論を取り扱いつづけることになる。

現実対象から変化と秩序を考察することを誤りだとは断定できない。問題は「不変」の秩序と思考するところに想定した、神聖にして侵すべかざる真理の世界という観念世界である。これは宗教的な魂の不死性への願望の反映でしかないが、近代科学の枠組みを決定付けている。

近代科学の言う真理の探求とは、常のこのようなベクトル上にある。極論すれば、現代の科学が、科学という名においてそれだけで正当性を持つというのは、宗教的な願望でしかない。

一方、古代イスラエル民族は、弱小で迫害の歴史ゆえに現実社会に対して確信をもてる論理を構築できないがゆえに、現実世界を越えたところに絶対的な根拠を求めていく。ギリシャの自然観では、人間存在の位置がコスモスの中に位置づけられているのに対して、キリスト教は、唯一絶対神を想定することで世界の存在根拠を対象世界の外にもとめ、人間存在を世界の外に位置づけた。

世界の外から世界を眺めるという構図が、近代の自我の性格を決定づけていると同時に、科学者の態度を決定づけている。近代思想の理性や近代科学の客観性とは、現実世界から遊離した地平に自らを置いているというだけかもしれない。

十字軍以来、東方貿易を通じて、都市が発達し、商人たちが富を蓄積していく。性市場の拡大と商品市場の拡大は、自我や性闘争を美化し共認するための幻想観念を必要とする。性的自我や抜け駆け性闘争(性市場)を美化していたのが人間主義であり、私権闘争(商品市場)という現実に立脚し、支配し利用するものとして自然を対象化したのが近代科学である。

近代の科学的態度とはもっとも自我から遠いところに位置しているように見えながら、その成立過程や果たした役割からは、自我と表裏一体のように思えるのだが。



石野潤
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