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近代科学を切開する

   

科学者の自己完結性について

『科学的世界認識と日常のずれ』を読ましていただき、科学者の自己完結性の問題については共鳴するところがあります。しかしながら、以下の点については少々異論がありますので内容を展開してみたいと思います。

>実現論と比較して考えてみると、実現論が現実社会での不全感や問題点を出発点にしているのに対し、科学はある専門家の興味・問題意識などから出発するという相違点があげられます。
(引用4310 より)

科学者の研究対象選択が個人的な興味関心事にゆだねられてると言う傾向は確かに存在すると思います。しかしそれは、研究対象選択や職業選択が個人の意思によって決定可能な時代だということとあまり変わらないように思います。そこで、個人の研究対象選択がどのようになされるかを考えてみると、社会の期待や回りの人々の期待からまったく独立した『個人の意思』なるものを研究者の内面に措定しない限り、専門家の興味・問題意識も社会の期待を反映したものになるはずです。

人間は他者の期待に応え評価され充足するという基本構造をもっていますから、科学者にもその構造は当てはまります。ただ、社会の期待も市場社会では、豊かさを実現するための生産性に係わる部分や、先端科学と呼ばれる市場の覇権を握る鍵となる対象に偏重してきたため、市場原理に相反する地球規模の環境破壊をどうするかなどの、本源的な社会の期待には無力だったと言う事ではないかと思います。

>また、科学においては科学的事実については価値判断は行われず、それは社会に委ねられる、という姿勢も社会からの距離を遠くしているように感じます。このような構造においては、専門家でない私たちにとって、科学的世界認識と日常とのずれを感じるのは、必然的のような気がします。
(引用4310 より)

ここでもし、科学的事実についての価値判断が社会にゆだねられているのならば、科学者は社会の評価にさらされているはずです。そして現在、科学者に対する批判が一般大衆の中で大きな勢力足りえていない状況をみると、社会の価値判断と科学者の行動とは(これまでの所)概ね一致していたと見るほうが自然かと思います。

市場の期待は、前述の生産性や覇権という研究の方向性を決定付けるものと、科学はあくまで自然現象を対象とし、社会を考えることは(科学を制度化した)統合者の領域であるという暗黙の共認が成立しているのではないかと思います。これにより、科学者は免罪符をもらい専門家集団の自己完結的世界が、市場の期待に応えている限り保証されると言う構造が成立したのではないかと考えています。

科学が社会を対象化できないとはまさにこのような構造があるためで、市場社会の科学(者)に対する期待そのものが、本源性に照らして見ればゆがんだ構造にあり、その条件下で体制化された科学者集団の価値判断はその影響で当然のごとくゆがんでいった、と言うことではないでしょうか。


本田真吾
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