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近代科学を切開する

   

価値判断の転換(1)>藤岡さん


こんにちは、藤岡さん。

>私たちとしては、やはり「現在の科学でたとえ安全といわれても、50年後100年後にどうなるかまでは保障できないような技術はよくないんじゃないかな」という、なんというか、動物としての直感みたいなものを、いかに価値軸にまで高めていくか(つまり観念化する)、そういうところに努力するのが近道なんじゃないかな~、と私は自信なげに思います。

確かに、価値判断を転換する必要があると思います。例えば、単純な判断ですが「新しい化学物質や技術は、安全を実証できるまでは使用禁止とする。」とするのはどうでしょうか。

パズタイ博士の実験についても、実験の不備をついて、「それでは、実証されない。」と言うだけで、安全性を実証できる科学者はいるのでしょうか。環境ホルモンを連想したのも、その当初も似たような状況にあったように思われるからです。「その物質の影響であると因果関係を特定できない。」というように。

現在の、実証主義のスタンスが他者否定的であるのは、偶然ではないと思います。科学者集団の閉鎖性はすでに議論されたところですが、ワトソンの話を追加しておきます。

DNAの二重ラセン構造の発見者でノーベル賞を受賞した、ワトソンは「二重ラセン」という自伝的な書物の中で、科学者とは、いかにライバルを出し抜こうと詭計を巡らし、他人を陥れ、自分だけが高い業績に近づけるように図る人間として登場します。なによりも、ワトソン自身がそのような振る舞いを、何の当惑や恥ずかしさも見せずに当然のごときこととして書いています。

「それでは実証したことにならない。」という、否定形の実証主義です。他者を蹴落とすための実証主義ともいえます。そして、そのような難癖の付け合いをくぐり抜けてきたものを現代の科学は「主流」と呼びます。これらは、自らの業績のためであれ、市場の要請であれ、国家の要請であれ、自らの利害のための他者否定という構図でしかありません。

そこで、「安全性を実証しない限り、認めない。」に転換すればどうでしょうか。既存の化学物質や技術についても何らかの危険性が発覚したら、「安全性を実証せねばならない。」とするわけです。しかし、この場合、限定的な条件下の実験や観察だけではすまなくなります。動物への投与実験で毒性がないとして、動物の構成する要素に変化はないのか、遺伝的な影響はないといえるのか、その投与を継続的に行なった場合はどうなるのか、食物連鎖上の影響はないのか、生態系に対する影響はどこまで実証できたのか、対象とすべき範囲は非常に広くなります。利害関係のエネルギーでは、やってられないでしょうが。

予測不能というのは、そのような予測を実証しようとしていないだけであって、そのような結果を積み上げていけば、十分予測は可能なはずです。現在は、限定された範囲内で毒性を認められないという実証をしているだけだから予測できないのです。

このような場では、現在の科学者にも活躍の場があります。「それでは、安全は実証できていない。」と実験の不備を付く役割を担えばよいわけです。そして、安全とは何かを積み上げていけば、結局、「安全の実証」とは、生態系の中でどのように調和するのかということを確認することに他ならなくなります。

果たして、そのような価値判断の転換が可能なのでしょうか。対立するのは、市場の要請だけのように思われます。安全を突き詰めていけば、きっと「人間も生態系の一部である」ことや「自然への畏怖」みたいなものにたどりつくというのは楽観的な感じもしますが。




石野潤
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