だとすれば、彼が対象にしているのは、既に無数の同類他者が存在していることを大前提にして、かつその中で彼が注目する遺伝子座の多数の変異遺伝子たちが、一切それ以上は変異を起こさないと仮定した上での(上述した様に、そんな状態は現実には存在しない、頭の中の幻想にすぎないが)、その後のその遺伝子座に存在する多数の変異遺伝子たちに働く淘汰現象だけだと云うことになる。
また、淘汰圧は個体→ゲノム→全遺伝子に対して働くのであって、ある特定の形質に関わる遺伝子群に対してのみ働くなどと云うことは、在り得ない。(例えば、ある種の鳥の尾の長さは、その鳥の筋力をはじめ全形質とのバランスの中で、決められている。)ところが彼は、ある特定の遺伝子座に存在する多数の変異遺伝子たちに働く淘汰現象しか、考えることができない。しかし、それは現実には殆ど在り得ない「淘汰現象」である。
これでは、全くの幻想世界でのシミュレーションゲームに過ぎないではないか?しかも、一切変異しないという誤った前提の下では(加えて、特定の遺伝子だけを単独で取り上げるという二重に誤った前提の下では)、いかに精緻なシミュレーションを繰り返しても、誤った答えしか出てこない。例えば、安定なESSなるものにしても、それで淘汰が終わる訳はないのであって、ESS間にも淘汰が働き、更にその上位階層にも淘汰が働く。しかも、現実にはその間に、全く予測不可能な新変異体が次々と登場する。もはや、シミュレーションは不可能である。
進化の原理は、もっと単純である。もう一度、云おう。可能な限り多様な変異体=同類他者が存在していること自体が淘汰や進化の源泉であり、従って、可能な限り多様な同類他者を作り出すことこそが淘汰や進化を生み出すのである。そこでは、優性・劣性という概念も、利己的・利他的という概念も、生命の維持や進化を見る上では極めて一面的な概念装置でしかない。あらかじめ、利己的・利他的という類の固定的な概念装置を措定してそこからのみ物事を見ること、及びそうして得られた認識群を、ドグマorイデオロギーという。科学とは、その様な固定的な概念装置を疑い、壊し、絶えず創り直してゆく営為なのではないかと、私は思う。
四方勢至
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