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近代科学を切開する

   

オオマサガスが日本で発明された意味。それは自然との和を乱してしまった現代の我々が、再び自然の姿に学んで水のように調和する真の文明を創るための導きなのではないか

「大摩邇(おおまに)」さんの記事を紹介します。
リンク
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『オオマサガスが日本で発明された意味』

 今年のはじめ、父親が目薬を探しているというのでいろいろと調べてみたところ、オオマサガスの日本テクノ株式会社さんが目に差す水を出しているということを知りました(※)。水からエネルギーを取り出すオオマサガス!ということは知っていましたが、健康・医療への貢献もあるのか!と早速お取り寄せしてみました。その際に、見学をさせていただけたら幸いです!との旨をお伝えしました。ど素人ながら何と大胆な(汗)・・・するとなんと「ぜひどうぞ!」との連絡がきたのです!
 水を振動攪拌しながら電気分解することで発生するオオマサガス(酸水素ガス)、その酸水素ガスを基にしてエネルギーを取り出すというのですから、原理自体はとてもシンプルです。しかし、水からエネルギーを得るという、しかも入力より出力の方が大きいという、それこそ革新的なエネルギーなのです。
 こうしたオオマサガスの発見及びその活用法などにおける一連の過程において、大政龍晋氏は論理的思考を超えたひらめきが後押ししてくれた!自分でないものの力が働いた!とおっしゃいます。
 かつてローマ帝国が衰退したのは、真善美を追求する文化を忘れて軍事、政治、技術に重きを置いたことが大きく影響しているように思えてならない!という大政氏。既得権益のしがらみが逆巻く現代の世の中において、オオマサガスがなかなか表に出ることができないでいる理由を垣間見るかのようです。

 東京電力福島第一原子力発電所内に大量に増え続けるトリチウム汚染水について、経産省資源エネルギー庁は処理方法を検討していて、規制委の更田(ふけた)豊志委員長は「海洋放出が唯一の手段」と発言しました(※)。本当に真剣に検討した上で、海洋放出が唯一の手段!としているのでしょうか?ぜひ「正直、公正」に処理方法を検討してもらいたいものです。ここにしかない、そしてどこにでもあるともいえるオオマサガスこそは、答えの一つになり得るかもしれないのですから。(詳細は後編で)

 『日本でこの技術が発明された意味。それは自然と共生して栄えてきたこの国でその和を乱し始めてしまった現代の我々が、再び自然の姿に学んで水のように調和する真の文明を創るための天の導きなのではないだろうか』(大政龍晋著「地球を変える男」より)

(中略)

大政氏は20数年前、ある展示場で既存の振動モーターに出会ったときに、雷に打たれたような衝撃を受けたそうです。
そしてその四年後に、振動モーターを利用した攪拌のイメージが泉が湧き出るようにスーと出てきたとのことです。
これにより、メッキ加工の工程で処理液の均一な攪拌ができるようになったのです。そしてそれは、洗剤を入れても泡立ちがないため、きれいな洗浄処理もできたのです。
さらに、従来のメッキ液の老化廃液は重金属を多く含み、処理も大変で海洋投棄されていましたが、このメッキ液を振動攪拌しながら電気分解をすると重金属が完全に無害化処理されることがわかったのです。
そしてここからさらに、振動攪拌技術を使って水からブラウンガス(酸素・水素混合ガス)を作ろうと思いついたとのことです。

※オオマサガス…OHMASA-GAS(Oxygen[酸素]・Hydrogen[水素]・Mixing[混合]・Atomic[原子]・Symmetrized[調和した]・Aerating-Gas[ガス])

水を振動攪拌しながら電気分解することで得られるオオマサガスこと酸水素ガス、その煙のような泡こそが実は画期的な働きをするということが徐々に解明されていき、今に至るのでした。
この煙のような気泡が、想定をはるかに超えた実に驚くべき働きをするのです。
そして、この振動攪拌された水もまた、生命力を活性化させるような特別な水となっているのです。

(後略)




匿名希望
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生物機械論と自然界~近代科学は、自然界や生物界の「機械的側面」での探究にしか過ぎない

生物機械論と自然界
リンク より

17世紀の科学革命の時代以降、近代科学においては、それ以前の生命観とは大きく異なる、「生物機械論」が広まっていきました。

生き物は精巧な機械仕掛けであり、物理化学的法則に従う存在として理解できる、といった考え方です。
この「生物機械論」的生命観の普及に大きく貢献したのが、17世紀前半に活躍した哲学者、R・デカルトや、同時代の自然学者、A・ボレリ、さらには18世紀の研究者、J・ラ・メトリでした。

デカルトは、同時代の医学者、W・ハーヴィーにより明らかにされた、血液循環の知見により、自身の考え方に間違いないと確信を持つようになったようです。
デカルトは、ハーヴィーの学説を自分なりに咀嚼したうえで、血液循環を機械的・水力学的過程であるとみなしています(1637年の『方法序説』において)。それと同様に、身体の運動はすべて、機械の物理的法則に従う運動として捉えられると、デカルトは考察していったのでしょう。

さて、20世紀半ば以降、分子生物学の華々しい成果のおかげで、生体の細胞内の分子レベルでの挙動について、遺伝子DNAの挙動を中心に、かなりの細部にいたるまで理解できるようになってきました。
そのため、「生物機械論は生命観として妥当である」とか、「生き物が機械的存在であることが分子生物学により確証された」といった言明が出回るようになりました。
こうした発言は、そこまで言ってしまうとさすがに言い過ぎではないか、と私には感じられます。それらは発言者の依って立つ研究分野の正当化のためになされる場合が多く、イデオロギー的言明の色あいがありそうです。
実情は、「生物機械論」が近代科学の方法論と相性が良かった、ということなのではないでしょうか。

17世紀以降の近代科学では、実証主義と数量化が重んじられるようになりました。実験や観察に基づき、「再現可能性」のある現象に関して、数学的法則性や物理化学的秩序を抽出していく、といった方向性です。
言い換えれば、近代の科学的探究においては、自然界や生物界のなかの「機械的側面」に光を当て、そうした方法で摘出できる部分についての理解を深めていった、ということです。
自然界や生物界には、機械として理解できる側面は確かにあります。しかし、だからといって、自然や生物が機械と等しい、とは言えないでしょう。
機械論の枠組からは、対象世界の「画一的・普遍的側面」を把握しやすいですが、自然界・生物界には、「多様性や個性」が充満しています。そして、1回限りの新奇な出来事がしばしば生起します。後者の側の、機械として理解しづらい領域については、機械論的方法論は必ずしも有効とは限りません。

結局、「生物機械論」とは、適否を判定すべき命題ではなく、「研究を進めるための準拠枠」である、と考えられます。生物学の結論ではなく、「前提」なのです。
 
ところで、ルネサンス期の万能人、レオナルド・ダ・ヴィンチは、機械工学者でもありました。飛行機や潜水艦、ヘリコプターやエレベーターなどの設計図を描いています。
レオナルドは、鳥の飛ぶ様子を観察・研究して飛行機を設計し、魚の泳ぎを力学的に解析して潜水艦の図面を引きました。
ということは、この場合、機械は動物をモデルに考案されたのです。
17世紀の科学革命の時代の最も代表的なメカニズムであった、機械時計に関しても、事情は似ています。
機械時計は、天体の運行を模して、作成されました。こちらの場合も、我々を取り巻く外界に、モデルを見出していたのです。

歴史的順序に沿って整理しなおしてみましょう。
まず、機械は、人間の思考によって、自然界の一部をモデルにして、その部分を一つのシステムの中に封じ込めたものでありました。
人間の技術は、自然界のなかの、わかりやすい部分、画一的・普遍的部分から順に、機械化を進めてきました。
そして自然科学は、その機械をお手本にして、自然界を理解しようとしてきたのです。したがって、「生物機械論」における生物のモデルは機械でしたが、その機械の見本は動物や自然界だったのです。
循環論法と言えば、その通りなのですが、それゆえ、人間の理解度の進展との相性が良いわけです。

逆に、機械化しにくい(されえない)自然の部分は、理解されにくいまま残されがちとなるでしょう。生物の多様性や個性が新たに出現してくる動向(同所的種分岐や、個体発生過程の変更など)は、シンプルな機械的説明をするのは困難です。DNAですべてを説明するような、還元主義的解釈もありえますが、説得力があるとは必ずしも言えません。
つまり、「生物機械論」の枠組から外れる領域、収まりにくい領域については、その準拠枠に依拠する科学的探究の対象になりづらいのです。さらに、そうした領域があること自体が、認知されにくくなっていると思われます。
 
まとめます。
「生物機械論」は、科学的探究のための「前提」となる準拠枠であります。現代生物学の結論の類ではありません。実績があるため、その枠組の有効性は疑いありませんが、それに伴う、気づきにくい短所もある、ということです。

(引用終わり)




中村英起

ベルギーの科学者が、反重力装置を数学的に証明した論文を公開

ベルギーの科学者が、反重力装置を数学的に証明した論文を公開したようです。真偽のほどは分かりませんが、既成概念に囚われないというスタンスは共感できます。
以下、「TOCANA」(リンク)より引用します。

■ ■ ■

■一般相対性理論をも脅かす型破りな理論

 人間の意図によってコントロールできる人工の重力場を作るなんて科学者が真面目な顔していえば、SF小説を読みすぎたのかとまともに取り合ってもらえなかっただろう、少なくとも今までの常識で言えば。ところが、今一人の研究者がそれを現実のものにしようとしているのだ。

 ベルギー、ナミュール大学のアンドレ・フースファ教授は、科学誌「Physical Review D」において論文を掲載し、人工的に重力を制御することができる画期的な方法を提案し、それが現在の技術によって十分可能だという事を数学的に証明してみせた。現地時間の1月8日、フースファ教授は同大学のニュースページにて、より積極的にこの研究に参加してくれる新しい人材の募集を発表している。

■アインシュタインへの挑戦状!?

 しかし、もし型破りともいえるこの提案が発展を続ければ、物理学を一変させ、さらにはアインシュタインの一般相対性理論をも揺るがす事態となりうる。現在科学者たちは一般相対性理論を踏まえ、フースファ教授の提案とは逆に、重力場は惑星、彗星、小惑星などといった巨大な質量を持つ物体によって作られるものであり、我々は重力に対して「受動的」な存在だと捉えている。ゆえにその重力場を我々の力によって変化させることは理論的にできないとしているのだ。

 フースファ教授はこの「受動的」な立ち位置に疑問を感じ、十分に制御された磁場から重力場を自由自在に操り、この磁場がどのようにして時空を曲げるのか観察してみようと思い立ったのだという。これはいわばアインシュタインへの挑戦状でもある。

 フースファ教授は、「もし家のガレージに重力場を作れたら、わざわざ宇宙まで行って研究しなくてすむんだ。今までそれを誰もしなかったというというだけの話さ」と意気揚々。フースファ教授は、このデバイスによって磁場や時空の研究は飛躍的な進歩を遂げ、今まで多くの部分が謎に包まれていた「なぜ重力が光を曲げるのか」といった課題も解明できると語っている。さらには今までアインシュタインの一般相対性理論が正しかったのかどうか、理論上だけでなく実際の実験によってその真偽が判明することになるのだ。


■超電導体コイルの磁場で重力場をコントロール

 論文によれば、このデバイスを現実に作るにあたって、CERN(欧州原子核研究機構)やITER(国際熱核融合実験炉)で使用されているのと同等の能力を持つ装置が必要になるとしている。それだけにこの実験には大規模な資源と費用を要することになる。フースファ教授が証明したのはあくまで数式上のはなしだが、任意の大きな定常電流を持つ電流ループと円筒形に線を螺旋状に巻いたコイルであるソレノイドの周囲に存在する湾曲した時空から、数式的に重力操作の可能性を示している。つまるところ教授の論文を簡単にいえば、非常に強力な超電導体コイルを用いて自由自在に操れる重力場を生み出すことができるというわけだ。

 仮にもしこの実験が成功すれば、確実に物理学の大きな前進となるのは間違いない。他の三つの基本相互作用(電磁場、強い力、弱い力)と同様に「重力相互作用」を人工的に作り出すことができるようになり、それは重力を新たな時代へと導くことを意味する。そしてゆくゆくは、重力が新しい産業や工業とリンクしていくことだろう。

 いまだ人類が夢にもみなかったことが次々と実現されることになる。これまでこのような科学の進歩はSFの夢物語だったが、例えば重力波を使った通信分野が確立されれば未だ予知できない技術が次々とうまれるかもしれない。世界の反対側に衛星や地上の中継を通すことなく重力波を用いた「電話」で話せるようになるかもしれない。

 「最近の研究者の多くは、その概念を理解することに専念し、どういうわけかその概念自体を疑問視することに疎かになっている」とフースファ教授が語るとおり、今はまだ夢物語のような理論でも科学の進歩はいつの時代でも疑うこととともに発展してきた。現在では科学に欠かせない特殊相対理論も発表当時はその斬新かつ難解すぎる理論に、受け入れらなかった。アインシュタインの発見とてたかが1世紀前の話である。今後どのような未来を見ることが出来るのか非常に楽しみだ。





末廣大地

近代科学信仰の破綻と学校教育

原始共同体では、現実や社会の説明のために信仰や祈りを中心に寄り添いながら生きてきた時代であった。観念も最小限にその伝達手段としてのみ用いられてきた。一方で宗教改革に伴って、自然を切開しようとした近代観念が生まれ、信仰や祈りと対立する形で、社会を説明する文脈が科学信仰に移行した。そこから今日まで科学至上主義として物質文明を育んできた。

信仰も科学もともに社会のしくみや生き方の規範やものさしをどう捉えるかという共通のものであったが、近代科学信仰が進みすぎて、社会がユークリッド幾何学であったものが、最近では素粒子理論やダークマターなどになってすっかり矛盾、破綻している。

科学技術が発展することで人々の生活が豊かになり、いくつかの危機を乗り越えてきたとされる。しかし、結局現実社会の事実を認識しているクオリアに関しては次のように未解決のままである。人が感覚として感じている現実社会の基盤である部分はこれまでの科学ではずっと触れられずにいるわけである。

リンク

意識やクオリアという「感じる」「質感」の領域には科学は全く役に立たない。近代の量子力学の結論も「そう見たらそう見える」という良く分からない結論になってしまっている。現実世界を観念に翻訳する時にすでに何らかの翻訳が生じていることに他ならない。しかも近代科学が説明する認識にはタイムラグが発生せざる得なく意識が認識するのは無意識の領域となるのである。

『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダージュ著

そんな矛盾を多く孕んでいるにも関わらず、科学も信仰もひとつの考え方であり、物事をどういう言語を用いて説明するかという手段に過ぎないということを現代の教育では捨象する。捨象だけなら公理を求める前提としての現実自然現象の複雑なパラメータを排除するという言い訳もできるが、それよりも近代科学は矛盾するけれど絶対として詰め込み続けている。存在や事実、構造を考えるときの基盤として刷り込まれてしまうため、現実のあらゆる問題が未解決のままとなっている。

科学は万能ではなく、ひとつの説明言語でしかない。例えば地震予知はできないのに、ある地域での地震予知がまるで可能なように振舞う。そのことによって実際それ以外の地域で発生することで被害が大きくなってしまう。放射能はコントロールできるといいつつ、廃炉のめどが立ってない。病気は原因物質が特定できているといいつつ新しい病名が日々増えていく。

科学至上主義で近代科学や近代観念を学校でいまだに教えている。教えるなら、その前提をしっかりと伝えるべきであり、それはひとつの信仰であるということを伝えるべきである。さらに専門化、細分化され、もはや大自然にきちんと向き合って進める類のものではなく、専門用語や特殊言語の習得から始める観念上の訓練になっている。そんな近代科学はすでに若い世代には魅力のかけらもなくなってしまっているのだろう。

だとすると、実在する質感や意識から発する基盤が、今後の学校で求められる教育になると思う。科学知識よりも体験や行動を伴ったものが中心となるだろう。



匿名希望

科学的思考様式もまた、ひとつのイデオロギーである

科学的思考様式もまた、ひとつのイデオロギーである
リンク より

科学的方法で得られた知見は「客観的」知識であり、自然科学の探求は世界の“真の姿”の描写を目指している、といった、信仰に近い考え方がある。

科学者の間にも、また一般の人々の間にも、かなり根強く普及している神話である。この“客観性信仰”は、科学者共同体が、自己正当化し、権威付けを行うのに都合のよい宣伝文句として利用されているが、実質の伴わない思い込みに過ぎない。

実験的方法と数学的解析を結びつけた実証主義的方法論を核とし、機械論的自然観に根ざした近代科学は、17世紀のヨーロッパという歴史的・地域的制約条件のものと成立してきた。人類に普遍的な思考様式などではない。近代西欧文明の価値観を反映し、また西欧文明のあり方に影響力を行使しつつ、自然科学は発展してきた。

つまり、科学的認識方法は、世界の見方に対する「歴史的伝統」のひとつなのである。
科学者は往々にして、このことに無理解である場合が多いのだが、それは科学的物の見方・考え方が当たり前と思い込むように、高校、大学、大学院の研究室で教育され、自明のものと受け取るようになっているからであろう(振り返ると私も大学時代にそのように教育された)。一定の訓練を積まないと、仮説構築や実験プランを立てることは困難である。その訓練の過程で、いわば“マインドコントロール”され、自身の思考様式が客観的・普遍的様式であると誤認するようになってしまうのではなかろうか。

自然科学の諸分野では、分野ごとに、一定の約束事で世界を切り取っている。複雑で多様な世界を理解するために、理想的状態―真空中の運動、分子間力と大きさのない理想気体分子など―を仮定したり、物体の性質のうち数式化に馴染みやすい性質のみを考察の対象にしたりする。これらは、科学者の共同体において、歴史的に形成されてきた必然性のある約束事である。

ある時代の科学者集団は、その研究の生産性の観点などから、一定の自然像を暗黙のうちに選び取り、その自然像と親和的な枠組を構築して、その内部で研究が行われる。そして科学教育も、その枠組の内部で行われ、科学者が再生産される。科学的世界観は、いわば“恣意的”に切り取られた約束事の上で成り立っている人為的な世界模型なのである。
もちろん、“恣意的”だからといって、科学的認識が現実的な世界把握から無制限に隔たってしまうわけではないが、科学に内在する方法論の束縛のため、ある一定の制約を受けているのは確かであろう。

ところで、用いる言語の違いによって、その言語で分節される世界像が異なってくることは、よく知られている。人は、言語を通して、世界を把握する。
科学者集団や、さらにその内部の個別専門集団においては、それぞれの専門用語体系が成立している。となれば、科学者共同体の世界把握は、その共同体の用いる用語と概念枠組による束縛から自由ではないし、その内部の、原子核物理学のような個別分野の専門家集団は、さらにまた異なる専門用語体系のもと、他の分野とは異なるフィルターのかかった世界像を有することになろう。

そして、得られる科学的知識は、その知識獲得に向けて用いた方法に依拠するため、その方法が掬い取れる性質の知見のみが限定的に得られる、という構造的限界が存在する。
したがって、科学者が“ありのまま”に前提なしに自然界を捉えている、というのは幻想に過ぎないし、科学的世界像が、客観的・普遍的世界把握である、というのは根拠のない信仰に過ぎないのである。

ところが、問題なのは、歴史的に形成され限定付けられた認識方法である科学的方法が、あたかも唯一の正しいものの見方・考え方であるかの如く装われて、権威を伴いつつ世の中を流通している事態である。
その意味で、科学的思考様式は、ひとつの「イデオロギー」としての効力を社会において発揮している、とみなせよう。
原子核物理学者や、原子力技術者は、それぞれの専門化集団内で、独自の教育を施され、特定の訓練を経た後、特殊な専門用語と概念枠組を身につけた専門家である。そのため、必然的に、一般の人々の世界認識とは世界像にずれが生じる。

このことを自覚して、自ら属する枠組の特殊性に対して、批判的検討を加えたり、専門外の人々との意見の流通を図ったりすることができれば、科学技術分野としての原子力は、“原子力ムラ”に呑み込まれずに済んだかもしれない。だが残念なことに、この分野での「枠組外し」を自覚的に行い得たのは、武谷三男氏や高木仁三郎氏や小出裕章氏など、一部の限られた人たちにとどまった。

大部分の多数派は、自らの専門分野の枠組内に安住し続け、人間としての人格的参与をせず、組織に責任を預けてしまっていた。
これらの原子力の専門家に対しては、高木氏の批判的コメント、「議論なし、批判なし、思想なし」がまさに当てはまる。
自らが「専門家であること」に対して、つねに批判的検討のまなざしを向け続けることが、専門家に課せられた責務である、と私は考える。

(引用終わり)




中村英起

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