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近代科学を切開する

   

重力とは、地殻に向かう自由電子の流れ

あらゆる生命も物体も、電子と無縁ではない。
地球は、ダイヤモンドの核を中心に磁場空間になっている事を考えると、「重力」という概念、そのイメージも随分違ったものとなる。
以下、『新宇宙概論~地球科学編~』リンクから引用します。

【重力】
地殻内の地電流は、電磁波の電子を吸収しながら強くなっていきます。つまり、地殻の電子の密度が高くなります。

北極と南極を磁束としてトーラス状に回っていた自由電子の一部は、電子の密度が高い地殻に引き寄せられて、放物線を描きながら地殻に向かって自由電子の流れを形成します。

地球科学のローレンツ力とは放物線を描く自由電子の流れを意味していて、重力と同じ意味になります。

この放物線を描きながら地殻に向かう自由電子の流れが重力です。

【運動の第1法則(慣性の法則)は重力で説明される】
物質は電子で構成されていて、自由電子の流れとともに移動します。宇宙空間では、電磁波の螺旋回転に影響されて移動したり、自由電子の流れで移動します。

重力は、磁束を中心にトーラス状に流れている自由電子の一部が地殻に向かう現象です。

重さとは、物質を構成する電子の密度と比例し、地殻へ向かう、つまり落下速度も同じです。

ガリレオ・ガリレイの落下の法則も、運動の第1法則(慣性の法則)も、上記の現象で説明できます。



佐藤有志
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道具的理性批判―物理学の間違いは無意識に繰り込まれている

道具的理性批判―物理学の間違いは無意識に繰り込まれている

破壊学事始より、リンク

アーノルト・ゲーレンはドイツの哲学者で、ナチスに加担したとして批判された。筆者は『人間―その本性および自然界における位置 』法政大学出版局、を図書館で借りて読んだだけだが、かなり影響を受けたと感じている。

ゲーレンの業績は哲学と言うより、自然科学、人類学での人間意識の変遷を明らかにしたことが大きいと思う。なかでも道具的理性の解明は、無意識の構造を明確にし、その欠陥も指摘した。ユングの無意識が夢のような漠然としたものであるのに対して、ゲーレンの道具的理性はきわめて論理的だ。

たとえば、南米のギアナ高地には、古代から進化の止まったカエルが生息している。この古代カエルは、動きがぎこちない。手足を一歩ずつ確かめるように前に出して歩く。ほかの進化した動物なら、歩くといった行動は、無意識に繰り込まれていて、考えずに手足を動かすことができる。古代カエルは、まだ無意識ができておらず、一歩一歩手と足を動かすことを意識しないといけないのだ。

人間の成長もまた古代カエルと同じだ。人間の基本的動作はDNAの発現と考えることもできるが、意識から無意識への繰り込みが多い。初めて自転車に乗ることを考えれば、わかりやすいだろう。

無意識への繰り込みは、動作だけではなく、考えるという高等的な作用へも現れる。日本人は、掛け算の九九を暗記する。基本的な掛け算の結果を、記憶することで、複雑な計算の負担を減らすためだ。日常生活で必要な計算の多くは、九九を暗記することで効率が向上する。

九九は道具的理性のひとつだ。計算だけではなく、人間の思考は無数の道具的理性で構成されている。ある人は、積み上げられた道具的理性を巨人の肩といった。現代人は過去の人間が積み上げてきた道具的理性の上で思考を働かせている。すでに無意識に繰り込まれた理性を疑う人は少ない。

もし、九九の中に間違った計算が入っていたら、それは直感的に気がつくだろう。しかし、その間違いが非常に紛らわしいものであったとしたら、気がつくだろうか?

たとえば、プラスとマイナスの電荷がくっついていたとする。電気力線は互いに中和するので、この2つの電荷が外に働きかける電気的引力・斥力はゼロだ。これがマクスウェルの解釈だった。マクスウェルは、当時、熱の伝達を考えていたため、電気力線も熱と同じように途中で干渉するとしたのだ。

ところがファラデーは実験によりクーロン力は干渉することなく真っ直ぐに働くと考えていた。プラスとマイナスの電荷がくっついているとき、外側にもプラス、マイナスの力線は真っ直ぐに伸びている。ほかの物質には、プラスとマイナスのクーロン力が個別に作用するが、物質内部で力が合成されるため、見かけの力はゼロになる。

数式の結果は同じになるため、マクスウェルの誤解はそのまま電磁方程式として広まった。これが現代物理学に埋め込まれた道具的理性である。いまさら電気力線は中和しない、と指摘されても、ほとんどの人はそのように考えない。人間の意識には、自己を守ると言う機能が備わっていて、すでに繰り込まれた道具的意識も変更できなくなっているのだ。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(マックス・ヴェーバー)でも、人間社会における習慣が社会変革を妨げると指摘されている。かように変革とは難しいものなのだ。





どーんと行こう

近代科学の思考欠陥 ~数学とはモノや自然を管理するための道具に過ぎず、数学で自然を捉えることができるというのは、人間の思い上がり~

先日の実現塾で「数字や数値は何の為にある?」との問いに、私は「ある事象や現象を正確に把握する為である」と答えたが、議長から「違う。モノやヒト、自然を管理する為にある」と切り返された。

ハッとした。まさにその通りだ。

”自然現象を支配できる”と(まさに神の如く)思い違いをしてきた西洋科学の思考に塗れてきたことをするどく突く、至極ニュートラルで的確な指摘だった。

「数学や数値によって、現象を正確に把握する」なんて、とんでもなく思い上がった思考だ。近代思想⇒近代科学⇒西洋の思考性の歴史を少しは学んできたにも関わらず、なんの躊躇も無く、自分の言葉から出てきたこと事態が恐ろしい。それだけ近代思想、近代科学に頭が支配されている証拠だ。

数学とは単なる道具に過ぎない。

本来道具であるべき数学や科学が、神格化し絶対化したことが、科学を停止させ、ついには自然環境を破壊してきた理由だ。このことを自覚し見直すことが、現代の我々に必要不可欠なことである。

以下、破壊学事始(リンク)より引用。

* * * * * * *

◆数学は道具に過ぎない

ABC予想でなんだかニュースが賑わっている。新聞の1面にも載った。しかしゲーデルの不完全性定理もそうだったが、数学は役に立たないことが多い。

物理学者の中には、自然界は数式で成り立っていると考えている人がいるそうだ。たまに論文を読むといきなり数式の変形から始まることがあって、面食らう。論文の中には、数式の変形だけで終わっているものもある。

17世紀、イギリスで王立協会が設立され、資金が寄付され授業が行われるようになるが、寄付の条件には、産業の役に立つこと、という条件があった。しかし、なかなか役に立つ授業は多くはなく、あとでクレームがついたらしい。

しかし王立協会は科学の振興を常に考えていて、市民向けの講義をちょくちょく開いた。ファラデーも市民講座の講壇に何度も立った。ファラデーの講演は人気が高く、ローソクの科学として出版された。いまなら、さしずめデンジローといったところか。

私たちは科学の描く自然界のイメージを、視覚的に捉えることが多い。数式でイメージできる人はまれで、それには特殊な訓練が必要だ。アーノルト・ゲーレンは道具的理性と呼んだ。道具的理性は、最初は意識して行う思考が何度も繰り返されるうちに、無意識的に行われるようになる、という人間意識のメカニズムだ。ところがこの道具的理性には欠陥があって、一度間違った論理が組み込まれてしまうと、それを修正することが難しくなる。

いっぽう、視覚的なイメージには間違いが少ない。現実の現象と照らし合わせることが可能だからだ。フック、ファラデーといった実験家はこのイメージ力が優れていた。きわめて直感的な論文を書いた。要素が多くなり、相関が複雑になるとイメージが難しいということもあるが、現代ならコンピュータがある。

DNAの二重螺旋は、発見された当時は複雑な構造で、図に表してようやく理解された。ベンゼン環も夢に現れて発見されたらしい。原子の構造は、20世紀初頭にラザフォード、ボーアがイメージしたが、その根底にあったのは、電気力線だった。マクスウェルの考えた電気力線は、プラスとマイナスが途中で中和するというものだった。原子核は、プラスの電荷しか、外側に影響しない、と考えられたため、マイナスの電子は、原子核の周囲を必死に回転しなくてはいけなくなった。

この電子が軌道を維持するための仕組みが数学によって説明された。波動関数の導入だ。しかしこれは科学にとって本末転倒な事件だった。電子の軌道が説明できなければ、それを組み立てている原理を疑うべきだった。

電気力線は中和しないのだ。

これはファラデーがイメージしていた力線のイメージだ。クーロン力は、まっすぐに伸びる線として考えられていた。個々の電荷から発せられた力線は、途中、干渉することなく物体に届く。物体内部にそれぞれ別個に及ぶ力のベクトルが合算されて、力が及ぶのだ。

原子核内部にマイナスの電荷があれば、電子は回転する必要がなくなる。マイナスの電荷は中性子が持っている。中性子は原子核から出ると約15分で陽子と電子に崩壊する。中性子は陽子に直接電子がくっついてできている。この電子がもつマイナスの電荷が原子核から一定の距離に電子をとどめる力を発揮するのだ。陽子のプラスが電子をひきつけ、原子核内部の電子のマイナスが反発する。

本来道具であるべき数学を自然現象と考えてしまったことが量子力学という壮大な空想を生んでしまった。21世紀は100年前におきた科学の間違いを正す世紀になる。

引用終わり




紺碧空

先住部族は植物同士の会話を当たり前の事実として捉えている

植物が化学物質を利用してコミュニケーションを取り、リーダー的役割を担う“母なる木”を中心とした集団を形成していることが明らかになっています。
従来の定説からすると植物同士の会話は驚きの事実となりますが、アマゾンに住む先住部族は、木々が周りの生態とコミュニケーションをとっていることを当然の事実として捉えています。
“先進”とは言えない部族が知っている当たり前のことが驚きの事実となるのは、自然を支配対象として矮小化して捉えてきた(キリスト教→)近代科学の歪みを示しているのではないでしょうか。
自然の摂理を捉える上では、近代科学の常識をリセットして現象事実を捉える必要がありそうです。

◇「木々は会話し複雑な社会生活を送っている」と専門家、私たちは木々の言葉を理解できるのか?リンク
<GIGAZINE>より
////////↓↓転載開始↓↓////////
~前略~

言葉を話すのは一部の限られた生き物だけであるとこれまでは考えられてきましたが、近年になって「木々は会話を行っており、人間はその言葉を学ぶことができる」という主張が生物学者や生態学者から主張されるようになりました。例えば、「ミクロの森: 1m2の原生林が語る生命・進化・地球」の著者であり生物学者のデヴィッド・ジョージ・ハスケル氏は「木々のネットワークつながりはコミュニケーションを必要とし、言葉を生み出すものです。そして自然のネットワークを理解するにはまず、木々のおしゃべりに耳を傾ける必要があります」と語っています。

ような概念は都会で生まれ育った人々には理解が難しいところですが、ハスケル氏によると、エクアドル・アマゾンに住むワオラニ族には、自然のネットワークの特性や生きとし生けるものはコミュニケーションを取っているという発想は当たり前のことだとのこと。そのため、ワオラニ族の言葉の中にも木々と周囲のものとの関係が反映されているそうです。

例えば、多くの人は「セイボの木」を見た時に「セイボの木」として表現しますが、ワオラニ族は「セイボの木が枯れている」という言葉の使い方をしません。彼らは木々について表現する時に「あのツタに覆われているセイボの木」「黒いキノコと藻が多いセイボの木」という言葉を使い、単なる「セイボの木」という言葉遣いは存在しないのです。個々の「種の名前」が存在せず、周囲の草木との関わりあいなど、生態学的な背景なしに名前を呼ぶことがないので、言語学者はワオラニ族の言葉を翻訳する時に苦労するとのこと。このように、木々が生き物として周囲の人間や他の生き物たち密に関わっていると認識しているワオラニ族は「木は切られる時に叫び声をあげる」「木々を痛めつけると人類によくないことが起こる」という、私たちの多くが否定してしまうであろう考えを自然に受け入れることができます。

~後略~
////////↑↑転載終了↑↑////////




稲依小石丸

人工知能と人工生命(佐野千遥著)~誤解されたAIのイメージ~その1

AI(Artificial Intelligence)とは
そもそもコンピュータなる機械がどのような機能を果たせるようになれば
インテリジェントであるといえるか、という問題意識から始まった。

計算機数学の大家チューリングが
人間との自然言語的なタイプされた文字による対話のやり取りで、その機械の姿を対話する人間に見せない場合、その計算機システムはインテリジェンスであるとみなせるとした事は有名である。

ただしそのようなシステムにはからくりがあり
実はその人間の既に話した内容から取り入れた情報をシステムの方が使うだけの事しかしていないにも関わらず、それに人間が騙されてるような側面もあった。

歴史的に、AIというものが独立した分野となる先駆的な役割を果たしたのは、ニューウェルのGPSS(General Problem Solving System)であった。
これは問題とその最終解決目標が与えられてる場合
その問題を部分的問題に分解して、各部分問題を解決していく際に
各解決が最終目標に距離的にどれだけ近づく事を可能とするかの情報を分析する事により、どの部分問題から先に解決していくとよいかを自動的に判断出来るシステムであった。

そこから時代は下って、エキスパート・システムが世を風靡した事もあったが、これにはインテリジェントなシステムとは、単にIQが高いというよりも、むしろ膨大な知識を持ったものでなければならないという認識が働いていた。
その為、初めはありとあらゆる知識をIF-THEN型のルールとして
人手で書こうという方向性が追及された。
こういったシステムの推論エンジンは当然、基本的には数理論理学であった。
AI実用化システムの大御所であるエキスパート・システムの推論エンジンが、数理論理学であったという事は、欧米のAI研究の大半が論理的AIであるという事実のほんの氷山の一角にしか過ぎない。
AIの大半が論理的AIであった原因は、何よりも論理演算を自動的に実行してくれるシステムが一番手っ取り早く、また人間の思考を模写しているかのように見えたからでもあった。

脚注で伝統的AIの数理論学的な自動的推論とは
どのようなものかを具体例で示した。
またこれは代表的なシンボリック・リーズニングなるものが
どのような長短を合わせ持ってるかを知るのにも役立つので
他人より一歩先んじた知識を得ようと思う読者には
脚注を読む事をお勧めする。
その具体例の要点は
論理的推論とは一旦知識を論理式の集合の形に書いたなら
後はその意味内容よりもっと表層的な形式的機械的処理だけを
使って実行可能であるという点である。




千田祐介

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